逗子の歴史めぐり~地元の歴史を掘り起こそう~「いざ、神武寺から沼間へ!」
逗子市にある神武寺は奈良時代からの古刹です。
表参道は厳かな趣を残し、境内は清らかな空気をまとっています。
そして、神武寺周辺はなんと源氏ゆかりの地です。
どんな歴史ロマンが待っているのでしょうか?
じっくり歩いて埋もれている歴史を探訪しましょう。
歴史&山城ナビゲーター 山城ガールむつみ
三浦一族研究会副会長、一般社団法人城組副代表。歴史やお城をテーマにしたイベントや講座を多数手がける。埋もれている歴史の掘り起こしにも取り組み、地域活性の歴史コンサルとしても活動。御城印発行などプロデュースしている。
- 所要時間
- 2時間
- 主な交通手段
- 徒歩
JR東逗子駅
JR東逗子駅を右に出て、線路を渡り直進します。
- 住所
- 逗子市沼間1-2-28
神武寺への登り口
右側に「天台宗 神武寺」の石柱と「神武寺 鷹取山登山口」の案内板があります。
そこを上ります。
10分ほど歩いたところにある尾根道は中世の尾根道だったのかも⁉、とみんなで一周しました。
神武寺は戦国期の緊迫した状況の中で城郭化されていた形跡があります。
ちなみに、天正18年(1590年)には小田原北条氏を攻めた豊臣秀吉の軍勢に攻められ全焼したといいます。
かつての尾根道や中世の痕跡を探しながら歩きましょう!
小さな切通があります。
遠くに海が見えます。
石を削った石段も歴史を感じます。
小さな切通もありました。
こんぴら山やぐら群(神武寺)
こんぴら山にあるやぐら群です。
こんぴらやぐらは20余りのやぐらが山肌に並んで掘られていて、まるで異空間のよう!
これらのやぐらは、鎌倉時代の終わり頃から室町時代にかけて掘られたようです。
神武寺の僧たちのお墓かもしれませんね。
神武寺入口 惣門 手前にトイレがあります。
古刹神武寺は深山幽谷の山で、美しい山道、そして歴史を楽しむことができます。
実朝や政子も参拝したとされ、吾妻鏡には「寺務寺」「神嵩」という名で登場しています。
「神ノ嶽」とも書かれていることから、山岳信仰の修行道場として信仰を集めていたことが想像できます。
神武寺には県指定重要文化財、市指定重要文化財、市指定史跡等の寺宝が残されています。
神武寺の南麓にはかつて海が入り込んでいたと思われ、その名残りが現在の田越川です。
修験者たちは神武寺の松明を目印に舟でやってきたかもしれません。
地形などから、かつての様子を考えるのも神武寺の楽しみ方のひとつですね。
弥勒やぐら(中原光氏の墓)
石仏の裏側には正応3年(1290年)9月5日に中原光氏(みつうじ)が73歳で没したと刻まれています。 光氏は京都舞楽の名門中原家の出身で、光氏の祖父有安は後白河法皇にも重用された京 都の楽人でした。京都から父に伴って下向し、人生のほとんどを鎌倉で過ごし、鶴岡八 幡宮寺の舞楽の指導者として活躍しました。光氏は神武寺に葬られることを願ったため、 このやぐらが造られたと思われます。そのことからも神武寺が山岳寺院として、格式の 高い霊場であったことがわかります。
石仏に刻まれた文字が、このやぐらが中原光氏の墓所であることを今に伝えてくれました。
鎌倉を中心に数あるやぐらの中で、埋葬者が分かっている唯一のやぐらともいわれています。
実はこの弥勒やぐらはとても貴重な遺跡なのです!
鐘楼堂・楼門・薬師堂
鐘楼堂は、切通の岩上に位置します。安政6年(1859年)に再建されました。
桜門は宝暦11年(1761年)に建立されました。
薬師堂は、縁起により文禄3年(1593年)建立と伝えられ、その数度にわたる修理の記録が見られます。現在の建築の主要部分は、棟札や墨書などから寛文6年(1666年)に再興されたものと考えられています。
天正18年(1590年)に豊臣秀吉の軍勢に攻められて、全焼してしまった神武寺。
その後、江戸城に入った徳川家康は家臣の長谷川長綱に命じて神武寺の復興を行ったといいます。
そのとき再建された建物の中で、唯一残るのが現在の薬師堂です。
坂を下って細道を左折します。
かぐのみ幼稚園、法勝寺があります。
山羊が飼育されています。
法勝寺
現在「沼間」と呼ばれる地は、かつて「沼浜」と呼ばれ、田越川を使った水運の要衝地でした。
東京湾に面した田浦湊へ続くこの場所に、神武寺があります。
神武寺南麓には源頼朝の父義朝の屋敷があったと伝わっています。付近には階段状の平場があり、「馬場」という地名も残り、武士の屋敷があったことを想像させてくれます。
法勝寺は日蓮宗寺院です。寺名や場所を変えながら、現在の法勝寺となりました。創建は行基が大蛇を退治して、十一面観音像を彫ったことに始まるといわれています。
源義朝は頼朝のお父さんです。義朝は関東に下向して、三浦氏や波多野氏などの
関東の武士団と姻関係を結び勢力を拡大しました。
義朝は保元の乱で勝利するも、続く平治の乱で敗北。そして、尾張国野間で最期を
遂げました。この義朝の失脚により、頼朝は伊豆国に流されることになったのです。
五霊神社
踏切と横断歩道を渡ったら五霊神社です。
天手力雄命(あめのたぢからおのみこと)を祭神とし、逗子市内で最古の神社ともいわれています。
光照寺へ
五霊神社を出てきた道を戻り、川沿いを歩いていきます。
光照寺
山号は開宮山、宗派は真言宗です。創建の時期は明らかとなっていませんが、『新編相模国風土記稿』には延命寺の末寺として記載されています。さらに、周辺には源義平の伝承が残っています。
本尊の阿弥陀如来は慶派の流れを汲む仏師の作品と考えられていて、市内に伝わる鎌倉時代後期の佳作と評価されています。
源義平は義朝の長男で、頼朝の兄です。悪源太義平と呼ばれ、江戸時代には軍記物や浮世絵に描かれるなど人気の人物です。
母は三浦義明の娘とされていて(諸説あり)、ここ沼浜に屋敷があったとされます。
源氏のお家騒動である大蔵合戦では、叔父義賢を討ち、その武名をとどろかせました。
平治の乱では父義朝とともに戦うも敗北し、六条河原で斬首されたと伝わっています。
光照寺が義平の普提を弔った寺だともいわれています。
海宝院
山号は長谷山、宗派は曹洞宗です。徳川家康の家臣長谷川長綱が創建しました。長綱はもとは駿河守護今川氏の家臣でした。その後、家康の家臣となり、家康の関東移封に伴い関東御郡代として関東に入りました。
長綱は十一面観音を戦場に持って行った戦ったところ、そのご加護を受け勝利をおさめたといい、十一面観音を祀る寺を建てました。しかし、開山として駿河から呼んだ支源臨呼は駿河の海が恋しくなり、海が見える場所に移りたいと家康に願い出て、移ったのが海宝院です。当初の寺は現在は良長院といい、かつての夢窓疎石の庵跡(横須賀米軍基地内)に建てられ、その後、横須賀市緑が丘に移されました。
※画像は本堂内部と陣鐘ですが、平常は本堂は開いていません。
本堂に掛けられている鐘は応永10年(1413年)に造られたもので、
もとは武蔵国小野神社の鐘でした。その後、関東動乱期に山内上杉氏によって持ち去られ、
回り回って北条早雲の手に渡り、早雲が新井城の三浦氏を攻めたときに打ち鳴らしたと伝わります。
このように神武寺をはじめ、源氏の伝承や貴重な数々の文化財の残る東逗子エリア!
ぜひ、足を運んでみてくださいね。