~長柄桜山古墳や六代御前の墓を歩く~市内に眠る古代から中世の歴史の痕跡を探そう!
神奈川最大級の前方後円墳や、源平の戦いを偲ぶことができる六代御前の墓など、 バラエティに富んだ歴史を楽しむことができるコースです。
景色も堪能しながら楽しく歩きましょう♡
歴史&山城ナビゲーター 山城ガールむつみ
三浦一族研究会副会長、一般社団法人城組副代表。歴史やお城をテーマにしたイベントや講座を多数手がける。埋もれている歴史の掘り起こしにも取り組み、地域活性の歴史コンサルとしても活動。御城印発行などプロデュースしている。
- 所要時間
- 2時間30分
- 主な交通手段
- 徒歩
亀岡八幡宮
逗子の中心にある「亀岡八幡宮」は地域の拠り所です。
三浦胤義の遺孤の碑
承久の乱で、朝廷方についた三浦義村の弟胤義は、京都の太秦で戦死しました。 これにより、胤義の子どもたちもその後、処刑されたとされ、その処刑された場所が田越川河畔だったと伝わります。 しかし、承久の乱後も胤義の子どもたちの活動記録が残っていることから、処刑されたというのはフィクションとの指摘もあります。 ただし、この伝承や六代御前の墓の伝承などから、中世において田越川が処刑場とされていたことが推察できるともいえます。 ちなみに胤義の妻は、源頼家の未亡人です。
- 住所
- 逗子市逗子5-14-5
徳富蘇峰石碑、顕彰碑
徳冨蘆花と柳屋
明治22年に横須賀線が開通すると、逗子には多くの文人や政治家が保養で訪れました。その中でも国木田独歩や 徳冨蘆花は、田越川の河口近くにあった風光明媚な景色が楽しめる柳屋に逗留したといいます。蘆花は4年逗留して 『不如帰』を書き上げました。 蘆花の兄徳富猪一郎(蘇峰)も逗子に別邸を建てて、親族と遊興を楽しんだと言われています。
宗泰寺
海長山宗泰寺
真言宗寺院。何度か火災に遭ったため、詳細は不明ながらも、鎌倉時代の創建と伝わります。 本尊阿弥陀如来立像と閻魔十王像、奪衣婆像が祀られています。 阿弥陀如来立像は、室町時代後期の造立と考えられていて、市指定の文化財に登録されています。 閻魔十王像は、名主の石渡家の先祖が1685年に仏師に作らせて寄進したものといわれています。 閻魔十王像、奪衣婆像も市指定文化財です。また、湘南七福神の大黒天も祀られていて、ご開帳の時期には参拝者で賑わいます。『新編相模国風土記稿』にも宗泰寺の記載が見え、それによると、宗泰寺は延命寺の末寺とされます。
六代御前の墓
六代御前の墓
平家最後の嫡流「六代御前」の墓と伝わります。 六代御前は、田越川の河畔で処刑されたといい、その六代御前の菩提を弔うために、遺臣達が墓や堂を建てたと伝わります。
六代御前って誰?
六代御前は平維盛の子で、平正盛から6代目にあたるため、幼名を「六代」と名付けられまし た。そのため、「六代御前」と呼ばれています。高野山などの記録には「平高清」と名が出てきます。正盛は清盛の祖父にあたり、高清は清盛のひ孫にあたります。 正盛→忠盛→清盛→重盛→維盛→高清(六代御前) 六代御前とその母は、平家の都落ちの際に京都に残って、身を潜めていましたが、平家滅亡後に捕らえられました。平家の直系のため、本来なら斬首になるはずでしたが、文覚の嘆願により、命を取り留めました。このとき、六代御前は12歳頃と推測されています。 これにより、六代御前は文覚の預かりとなり、六代御前の母は源頼朝と懇意にしている公卿吉田経房と再婚しました。六代御前は出家して「妙覚」となるも、その後、処刑されたとも伝わります。ただし、処刑の有無、処刑の時期に関しては詳細不明、諸説ありです。六代御前の死をもって、平家は完全に途絶えました。
不動堂
六代山不動院。 この不動院は、三浦不動の札所になっています。 神武寺が別当を務め、毎年7月26日に六代御前供養祭が執り行われています。
長柄桜山古墳群第2号墳
長柄桜山古墳群は神奈川県最大級の前方後円墳です。 2基とも古墳時代前期(4世紀)と推定されていて、国指定史跡になっています。数片の埴輪の欠片を見つけたのがきっかけで、地元の考古学愛好家が1999年に発見しました。 全長90mという神奈川県最大の規模を持ち、1号墳からは埴輪などが大量に見つかり、2号墳からは試掘により、 葺石と埴輪が見つかりました。両方の古墳は尾根のピークに造られており、古墳の間の距離は500mほどです。 県内の同時期の古墳と比べても、完成度が高くヤマト王権とのかかわりがあったことが指摘されています。この場所は、海上ルートの重要地点と思われ、ここに古墳が造られたことは古代の歴史を考えるうえでとても重要とい えます。三浦半島には4世紀前半の古墳はなく、5世紀半ばにならないと出てきません。規模や時期を見ても謎が多く、また、相模湾側には古墳がほぼないことからも、長柄桜山古墳の存在は貴重で、今後の研究が注目されます。
※第2号墳からの眺め
長柄桜山古墳1号墳
※第1号墳は令和6年4月下旬から公開予定です。
桜山の住宅街
桜山の丘陵には神奈川県最大級の古墳が築かれていることから、この丘陵上を古くからの街道が通っていたとも考えられます。2号墳、1号墳を結んだ延長線上に、現在は桜山の住宅街があります。かつては、この住宅街からさらに東に向かって街道が通っていたかもしれません。その道筋を追いかけると東京湾方面に出ることが出来、この丘陵上に道筋は相模湾と東京湾を結ぶ大事な陸路だったとも考えられます。また北側には田越川が通っていることから、水陸交通が並行して走る要衝地であることがわかります。さらに、その川を見下ろすようにそびえる古刹神武寺がある、とても歴史深い地域といえます。
逗子経塚
田越川下流のエリアにはかつて「字経塚」という地名があり、その名の通り、経塚と伝わる塚がいくつかあったと伝わります。開発により、そのすべてが姿を消しました。
「経塚」ってなに?
経塚は、経典を土中に埋めて供養した塚です。 奈良時代から国家鎮護のために経塚供養が行われたとされます。平安時代になって末法思想が広がると、経典を後世に伝えるために経塚が造営されました。そして、さらには家や個人の祈願成就のために、貴族や武家が経塚を造営しました。 経塚は、当時の宗教的な思想を考えるに、とても貴重な遺跡です。塚の中には経典と経典をを収納する経筒、鏡、刀、合子、水滴、陶磁器、小銭、玉などが埋葬されました。
- 住所
- 逗子市4丁目7
延命寺
黄雲山延命寺
真言宗寺院。奈良時代に行基が自ら彫った延命地蔵菩薩を安置して創建したと伝わる古刹です。 平安時代以降は三浦氏が祈願所とし、篤く保護したといいます。以降、室町時代まで三浦氏の祈願所として栄えました。 しかし、三浦氏が滅亡すると、その後は小田原北条氏の帰依を得ました。しかし、今度は小田原北条氏が滅亡すると、 関東に入った徳川家康により、御朱印五石を賜りました。江戸時代には新たに大日如来尊像造立して、これを本尊としました。 また、「逗子」の地名の由来も延命寺に因むとも伝わっています。弘法大師が延命寺に立ち寄った際、延命地蔵菩薩を安置する厨子を造ったとされます。そして、いつしかこの地をその厨子に因み「厨子」と呼び、現在の「逗子」になったという説があります。
三浦一族滅亡!
戦国時代に北条早雲(伊勢宗瑞)が相模国へ侵攻を開始します。 小田原の大森氏を追い込み、永正9 年(1512年)8月には、三浦道寸の居城岡崎城を攻撃します。岡崎城は落城し、道寸は撤退を余儀なくされ、逗子小坪の住吉城まで退きました。それを追う形で東進してきた早雲は玉縄城(鎌倉市)を改修整備し、住吉城に対する拠点としました。そのため、道寸は住吉城の守備を弟の道香に任せ、自身は三崎新井城(三崎城)まで退却。早雲の嫡子、氏綱が中心となって住吉城を攻撃し、持ちこたえられなくなった道香とその家臣は城を出て延命寺にて自害したと伝わります。今でも延命寺の境内には「三浦道香・主従七武士の墓」が残されており、三浦氏の歴史を偲ぶことができます。 そして、住吉城の落城後も新井城に籠城して北条軍と戦うものの、ついに永正13年(1516年) に、道寸、義意父子は新井城にて滅亡しました。